ずーっと昔、子どものころに読んだ絵本に載っていた童話「ロバを売りに行く親子」のお話を、最近時々思い出すんです。お話のあらすじはこんな感じ。
* * *
ろばを飼っていた父親と息子が、そのろばを売りに行くため、市場へ出かけた。
2人でろばを引いて歩いていると、それを見た人が言う、「せっかくろばを連れているのに、乗りもせずに歩いているなんてもったいない事だ」。なるほどと思い、父親は息子をろばに乗せる。
しばらく行くと別の人がこれを見て、「元気な若者が楽をして親を歩かせるなんて、ひどいじゃないか」と言うので、なるほどと、今度は父親がろばにまたがり、息子が引いて歩いた。
また別の者が見て、「自分だけ楽をして子供を歩かせるとは、悪い親だ。いっしょにろばに乗ればいいだろう」と言った。それはそうだと、2人でろばに乗って行く。
するとまた、「2人も乗るなんて、重くてろばがかわいそうだ。もっと楽にしてやればどうか」と言う者がいる。それではと、父親と息子は、こうすれば楽になるだろうと、ちょうど狩りの獲物を運ぶように、1本の棒にろばの両足をくくりつけて吊り上げ、2人で担いで歩く。
しかし、不自然な姿勢を嫌がったろばが暴れだした。不運にもそこは橋の上であった。暴れたろばは川に落ちて流されてしまい、結局親子は、苦労しただけで一文の利益も得られなかった。
http://bit.ly/jVqT7h(Wikipedia:ろばを売りに行く親子)
* * *
この童話を読んだ当時はその寓意なんか全然分かってなかったんですけど、今になって読むととても納得するところがありません?
イソップがこのお話を作った紀元前の時代にはもちろんテレビもインターネットもなかったわけで、ロバを売りに行く親子に何かと難癖つけるのは彼らを見かけた道端の人たちだけだったんでしょうが、今や「ソーシャル」の時代。実際には道端にいない大勢の人にも、ロバを売りに行く親子の様子が瞬時に伝わってしまうのです。そして、特にちょっとでも世に知られた人が何か行動を起こすと、twitterなんかでもう、いろんなことを言われてしまうわけです。ありとあらゆることを言われて、私だったらびびってロバといっしょに道路の真ん中で固まってしまいそうですよ。
そしてもうひとつ思い出すのは小泉元首相が発した「鈍感力」という言葉。たしかに注目を浴びる政治家ともなれば、ロバの運び方についていちいちみんなの意見を気にしてはいられない。どうでもいいからロバを運ばなくてはならないわけで、「鈍感力」というのはまた、膝を打つアイデアですよね。
人の意見をまったく聞かないのは褒められたことじゃない。でも、この「ソーシャル」の時代、イソップの頃とは比べものにならない数の人がロバを売りに行く親子の行動を論評し、正直、揚げ足取りのような意見も大量にネットに流されていくわけです。そこからどんな有用な情報を拾い、どう判断し、ロバといっしょに道の真ん中で固まらずに先に進んで行くか。心ない批判、くだらない揚げ足取りに心折れることがない鈍感さ、図太さとともに、そんなリテラシーがないと身動きさえ取れない時代になったなぁと、あの絵本に載っていた幸薄そうな親子の顔を思い出しながら考えるのです。
May 29, 2011
May 15, 2011
国際的たらい回し。

ジンバブエの首都ハラレに滞在中にたまたま取った電話で、見ず知らずの現地の人から「日本から中古車を輸入しようとして代金を振り込んだが、相手が音信不通になった。」との相談を受ける。こっちが日本人だというのをどっかで知って電話をかけてきたんだと思う。
「はぁ、またですか。」
いや、電話してきた人にとっては初めてかもしれないけど、当方にとっては「またか。」です。アフリカにいると、そんなに珍しいことじゃないんです。ときどき聞く話。
「笑い事じゃないんだ!」
そりゃそうでしょう。被害額はたいてい数千~数万ドル。インターネットで日本の中古車輸出業者のページを見て車種を選び、メールと電話&ファックスで契約をしたというのがほとんど。 それで代金を振り込んだら相手が行方不明になる。
ためしにその中古車取扱業者のページを見てみると、見かけはちゃんとしたページには見えるんだけど、肝心の会社概要がなかったり、簡潔過ぎたりするんです。載っている電話番号の市外局番から「たぶん神奈川の業者でしょうね。」と分かる程度だったり。で、取り扱ってる中古車は確かにちょっと(かなり)お買い得な価格設定になってる。 さらに、英語はちゃんとしてるのに日本語が妙にぎこちなかったりで、これってロシア人とかパキスタン人とかがやってる中古車ブローカーじゃないの?って臭いがプンプンする。
昔、この手の問題の場合はまずどう対応すべきなのか警視庁に電話で聞いてみたことがあります。その警察の人曰く、まず現地の警察に被害届を出し、現地の警察が国際警察機構を通じて日本の警察に捜査依頼を出す、というのが標準的な手続きですと。なるほど。
しかしねえ、ジンバブエのような途上国の場合、どこまで現地の警察に事務処理能力があるかが多いに疑問です。しかも、被害者がジンバブエ国籍ではなくて、コンゴ国籍とかナイジェリア国籍だったりするし、ジンバブエは内陸国なので、中古車の配送先が南アフリカのダーバン港までとか、モザンビークのベイラ港までの契約になってる場合も多い。そこまでは自分で引き取りに行くつもりだったんでしょうけど、そしたら「現地」ってどこよ?って感じです。
要は、ジンバブエに住んでいるコンゴ人が、日本にいるパキスタン人の中古車ブローカーから中古車買ってモザンビークまで車を輸入しようとして詐欺に遭った。
あーもう、くらくらするね。この一文で被害回復の望みが薄いことは明々白々、残念ながら。国際的にたらい回しにされるのは目に見えてる。
「まずはジンバブエの警察に相談したらいいんじゃないですか?」
私もそう答えたしね。
* * *
日本中古車輸出業協同組合という業界団体があって、そこに加盟している業者だったらまだいい。音信不通になったらその団体が確認してくれるみたいだし、被害の回収などもやってくれるらしい。場合によっては代理弁済もやるらしい。でも、相談してくる人が代金を振り込んだ業者はまず、この団体には加盟してないです。
といって、数千ドル~数万ドルの被害だと、日本に渡航して被害を回復するのも費用がかかりすぎて意味がない。ジンバブエから日本までだと、渡航・滞在費が最低でも数千ドルになっちゃうからね。
この手の詐欺で泣き寝入りしている人、少なくないんじゃないかと思いますよ。 まあ、自己責任といえばそうなんですが。
May 14, 2011
「日本は終わった」の?
日本からのニュースが暗い話、気の滅入る話ばっかりなんですよね。地震、津波、原発事故が起きたからそれはまあ仕方ないんですけど、それに続く話もろくなニュースがないように見えます。私のtwitterのTLが偏ってるのかもしれないけど、それを抜きにしても、今後を嘆く声ばかりが聞こえてくる。そして、それがいちいち筋は通っている。もう、「日本は終わった」という勢いです。
たしかに厳しい。しかも、原子力災害補償スキームひとつにしてもマトモなものを設計できない政治。先行きを考えると重苦しいのはたしかにそう。
・・・なんだけど、でも、ふと思い出す。そこまでダメダメなんだっけ? 世界トップレベルの平均寿命、貧しくなったとはいえまだ世界的には豊かな部類に入る庶民の暮らし、類を見ないほど洗練されたサービス、それなりにちゃんとした教育を受けた1億人を超える人口。高齢化や震災で斜陽は迎えるかもしれないけど、だからといって「終わった」わけじゃないよね? 現に日本に帰ると(東京以西しか滞在してませんが)、「あれ?」っていうくらい生活は普通だし、楽しいし、美味しいし、刺激的だし、友人たちもそれなりにいきいき仕事しているしさ。
日本から遠く離れた海外に在住したりなんかしていると、日本に関する情報はごくわずかです。日本人として積極的に日本のニュースを日本語で取りにいっていればそれなりの情報は入りますが、そうじゃない一般の人々の日本に関する知識はほんと、限られています。そんな状況の中で、「ダメだダメだダメだ」と発信してばかりいたら、ホントに海外で「日本は終わった」という単純なメッセージが固定してしまうんじゃないかと恐ろしくなるんですよね。
アフリカなんかにいると、原発事故こそないけれど、もっと「終わってる」国はいくらでもあります。「破綻国家」とか酷いラベルを貼られた国も多い。しかしそんな国でも(いや、そういう国だから、かもしれませんが)、人々は日本人には奇異に映るほどプライドが高いし、「オレたちのどこが悪いんだ?批判するヤツがおかしい。」くらいの厚かましさを持っていますよ。
そんな厚顔を日本人が真似するべきでもないし、しようと思ってもできないけど、でも、あんまり自己卑下ばっかりして、責めて、批判して、ネガティブなことばっかり発信し続けるのは不健康だなぁと思うのです。日本は元気だ、大丈夫だと空騒ぎするわけにもいかないけど、悲観ばっかりしてても何もいいことはないし、「なんとかしよう」「なんとかなるさ」っていうメッセージがもっと発信されるといいなって思うんですよ。
たしかに厳しい。しかも、原子力災害補償スキームひとつにしてもマトモなものを設計できない政治。先行きを考えると重苦しいのはたしかにそう。
・・・なんだけど、でも、ふと思い出す。そこまでダメダメなんだっけ? 世界トップレベルの平均寿命、貧しくなったとはいえまだ世界的には豊かな部類に入る庶民の暮らし、類を見ないほど洗練されたサービス、それなりにちゃんとした教育を受けた1億人を超える人口。高齢化や震災で斜陽は迎えるかもしれないけど、だからといって「終わった」わけじゃないよね? 現に日本に帰ると(東京以西しか滞在してませんが)、「あれ?」っていうくらい生活は普通だし、楽しいし、美味しいし、刺激的だし、友人たちもそれなりにいきいき仕事しているしさ。
日本から遠く離れた海外に在住したりなんかしていると、日本に関する情報はごくわずかです。日本人として積極的に日本のニュースを日本語で取りにいっていればそれなりの情報は入りますが、そうじゃない一般の人々の日本に関する知識はほんと、限られています。そんな状況の中で、「ダメだダメだダメだ」と発信してばかりいたら、ホントに海外で「日本は終わった」という単純なメッセージが固定してしまうんじゃないかと恐ろしくなるんですよね。
アフリカなんかにいると、原発事故こそないけれど、もっと「終わってる」国はいくらでもあります。「破綻国家」とか酷いラベルを貼られた国も多い。しかしそんな国でも(いや、そういう国だから、かもしれませんが)、人々は日本人には奇異に映るほどプライドが高いし、「オレたちのどこが悪いんだ?批判するヤツがおかしい。」くらいの厚かましさを持っていますよ。
そんな厚顔を日本人が真似するべきでもないし、しようと思ってもできないけど、でも、あんまり自己卑下ばっかりして、責めて、批判して、ネガティブなことばっかり発信し続けるのは不健康だなぁと思うのです。日本は元気だ、大丈夫だと空騒ぎするわけにもいかないけど、悲観ばっかりしてても何もいいことはないし、「なんとかしよう」「なんとかなるさ」っていうメッセージがもっと発信されるといいなって思うんですよ。
May 07, 2011
「それは、なんのため?」
「コーヒーを出して。」と、上司が言う。
Aは「はい。」と答えて引っ込み、しばらくして戻って来て、「コーヒーがありませんでしたので出せません。どうしましょうか?」と訊く。
Bは「はい。」と答えて引っ込み、コーヒーがないことに気付く。で、ここで考える。上司が「コーヒーを出して。」と言ったのはなんのため?客人をあたたかい飲み物でもてなすためだよね。だったら、コーヒーはなくても、紅茶でも日本茶でも、とりあえずはいいよね。「あいにくコーヒーは切らしてますが、日本茶をお持ちしました。」
* * *
Aは、公務員の仕事のイメージ。
Bは、コンサルタントの仕事のイメージ。
「それは、なんのため?」コトの本質を問い、解決策を提案する。かっこよく言えば「ソリューションの提示」なんてことになるのかな。
コンサルタントじゃなくても、「それは、なんのため?」あるいは「それは、なぜ?」と、日々の出来事を、たとえそれが当たり前のことのように見えても、立ち止まって問うてみることが大切なんだと思うよ。そこから、新しい発見がある。全体像の理解が進む。
* * *
上司が客人をあたたかい飲み物でもてなすのは、なんのため?
ー>客人とよい関係を築くため。(客人とよい関係を築くためには、どうすればいい?=なぜ、客人とよい関係が築けないの?)
客人とよい関係を築くのは、なんのため?
ー>商談をうまく進めるため。(商談をうまく進めるためには、どうすればいい?=なぜ、商談がうまく進まないの?)
商談をうまく進めるのは、なんのため?
ー>売上を伸ばすため。(売上を伸ばすためには、どうすればいい?=なぜ、売上が伸びていないの?)
売上を伸ばすのは、なんのため?
ー>給料を上げるため。(給料を上げるには、どうすればいい?=なぜ、給料が上がらないの?)
給料を上げるのは、なんのため?
ー>豊かな生活をおくるため。(豊かな生活をおくるには、どうすればいい?=なぜ、豊かな生活が送れないの?)
・・・
こういうのって、「システム思考」とか呼ぶらしいけど、要は「それは、なんのため?」って問うてみるのは有意義だよ、って話です。
Aは「はい。」と答えて引っ込み、しばらくして戻って来て、「コーヒーがありませんでしたので出せません。どうしましょうか?」と訊く。
Bは「はい。」と答えて引っ込み、コーヒーがないことに気付く。で、ここで考える。上司が「コーヒーを出して。」と言ったのはなんのため?客人をあたたかい飲み物でもてなすためだよね。だったら、コーヒーはなくても、紅茶でも日本茶でも、とりあえずはいいよね。「あいにくコーヒーは切らしてますが、日本茶をお持ちしました。」
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Aは、公務員の仕事のイメージ。
Bは、コンサルタントの仕事のイメージ。
「それは、なんのため?」コトの本質を問い、解決策を提案する。かっこよく言えば「ソリューションの提示」なんてことになるのかな。
コンサルタントじゃなくても、「それは、なんのため?」あるいは「それは、なぜ?」と、日々の出来事を、たとえそれが当たり前のことのように見えても、立ち止まって問うてみることが大切なんだと思うよ。そこから、新しい発見がある。全体像の理解が進む。
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上司が客人をあたたかい飲み物でもてなすのは、なんのため?
ー>客人とよい関係を築くため。(客人とよい関係を築くためには、どうすればいい?=なぜ、客人とよい関係が築けないの?)
客人とよい関係を築くのは、なんのため?
ー>商談をうまく進めるため。(商談をうまく進めるためには、どうすればいい?=なぜ、商談がうまく進まないの?)
商談をうまく進めるのは、なんのため?
ー>売上を伸ばすため。(売上を伸ばすためには、どうすればいい?=なぜ、売上が伸びていないの?)
売上を伸ばすのは、なんのため?
ー>給料を上げるため。(給料を上げるには、どうすればいい?=なぜ、給料が上がらないの?)
給料を上げるのは、なんのため?
ー>豊かな生活をおくるため。(豊かな生活をおくるには、どうすればいい?=なぜ、豊かな生活が送れないの?)
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こういうのって、「システム思考」とか呼ぶらしいけど、要は「それは、なんのため?」って問うてみるのは有意義だよ、って話です。
May 02, 2011
やっぱり一票の格差の問題に行き着く。

波照間島に行ったんですけどね。お天気にも恵まれて、日本最南端の有人島を満喫してきました。白い砂浜、そこから続く輝くような青い海。その先は足が着く深さのところからすでにもう珊瑚礁。ゆるーい空気が、使い古された言葉だけど「癒し」になります。
というような波照間島観光の見所は他にも紹介されているサイトがたくさんあると思うのでそちらに譲るとして、私が気になったのは、やはり離島の暮らしは公共事業に頼らざるを得ないという現実を見たこと、なんですよね。
その畑から上がる収益ではきっと回収できない費用がかかる圃場整備や利水事業。観光客を乗せた車が日に何台か通るためだけなのにきっちり舗装された道路。新しいところでは地デジ対策。
公共事業による利益誘導だの、公共事業に頼る過疎地の経済だのっていう話は自民党政権時代、それも小泉政権時代よりもっと前に盛んだった議論でいまやもう過去の政策課題のように見られているんでしょうが、とにもかくにも公共事業がないと島の経済は成り立たないんだろうなーっていうのは、ほんの短い島への滞在でも感じられましたよ。
日本経済が停滞期に入ってはや20年。「俺らの生活をどうしてくれるんだ?」という声が地方からだけでなく都市部でも噴出するようになり、コストをかけて村の暮らしを維持する余力を失いつつある中、今後はどうしていくんだろう?って、背筋に寒いものを感じたのは事実。
いや、波照間島はそれでもまだよいのです。すばらしい観光資源があるし、移住したいと思わせるだけの魅力もある。現に、島に居着いている本土の人にもお目にかかったし。なんとかなると思う。
しかし、どんどん増えているという「限界集落」って今後どうするんだろう。波照間のような際立った特色もなく、高齢者ばかりになった集落が万単位であるらしいけど、そのすべてで生活基盤を維持させるためのコストは負担できないよ、この経済停滞期に。
「住み慣れた土地を離れたくない」という主張は心情的には分かる。でも、希望を全部は聞いていられないのも確か。どこかで妥協が必要で、その妥協点を見出すのが政治の仕事なんでしょうけどねぇ。
* * *
・・・そう考えると、私の疑問は一票の格差の問題に行き着く。今の制度では、往々にして限界集落の人たちの意見がより多く聞き入れられることになってます。衆院で2倍、参院で5倍の一票の格差ってそういうこと。限界集落の今後を議論するのに、「政府が責任をもって維持するべきだ」という人が多いと思われる勢力の意見を2倍、5倍の大きさで聞くってことだよね。それはフェアじゃないよね。
代表が集まって議論をしようと言うのに、代表の選び方がフェアじゃないんじゃぁ、仕方がない。
ということで、えらい話が飛んでしまいましたが、まず一票の格差是正が重要だと思う次第なのです。
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